思ったことしか書きません。

ニュースや世間に対して。

どこに興味を持つかは大事。

 

みなさんこんにちは。

 

人生を歩むときに、どこに興味を持つか?はとてもとても大切です。

 

山に登るとしましょう。

 

このとき、山の頂点に行くことに興味を持つのか、5合目(半分くらいの高さ)まで行くことに興味を持つのか、もしくは単に運動のために山に登ることを興味とするのか、そもそも違う山を登るのかでは、結果が全然違ってきますよね。

 

あなたが何かで結果を残したいのであれば、興味をどこに向けるかで、かなり結果の残しやすさは変わってきます。

 

もしあなたがお金持ちになりたいなら、お金持ちになりやすい領域、たとえば株や起業に興味を持つべきで、学問に完全に興味を向けたり、ましてや宝くじに興味を持つのは、間違った判断です。

 

もしあなたが有名になりたいなら、有名になりやすい領域、たとえばYouTubeSNSを頑張るべきで、何か一芸を極めたからといって、そのままでは有名になれません。

 

あなたが何かの一芸でメディアにフィーチャーされてる人を見たとき、その背後には信じられないくらいの数の、素晴らしい一芸を持った有名になれなかった人がいることを忘れないで下さい。

 

どこに興味を持つかで人生の終着点が全然違う事という事実は、誰にでも当てはまることです。

 

 

 

タブレット使って授業受けるやつは勉強に失敗している

 

みなさん、こんにちは。

 

久しぶりの投稿でございます。

 

高校生まではほとんどの高校で、ノートを使って、板書をとり、授業を受けていたと思います(一部の学校ではタブレットを使って授業を展開していますが...)。

 

一方で、大学生で、ノートの代わりにタブレットを使って講義を受けている人がチラホラいらっしゃいます。

 

時代ですね。

 

まだまだノート派の人の方が多いですが、徐々にタブレットなどの電子機器を活用して授業受ける人が増えている気がします。

 

 

 

タブレットを使う、新しいモノを使用するのはとてもいいことです。僕も新しいモノをすぐに使用する派です。

 

しかし、周りを見ていて、ノートではなく、タブレットをつかって板書をとったり、板書を撮ったりしている人で、むちゃくちゃテストの成績が良かったひとを見たことがなく、むしろ悪い人が多いと思います。

 

ここで注意したいのは、これが悪いかどうかは別の話、ということです。

 

今、成績が悪いという事を、勉強が出来ないと同じ意味で使いますが、

 

勉強が出来ないという事が必ずしも悪いことではありません。

 

ただ、タブレットを使って勉強するひとの成績は悪い、という事実のみを言いたいだけです。

 

ちなみに、根拠となるデータは全くありません。

 

でも、何となく分かります。

 

物事を深く考えるときにおいては、我々はまだ電子機器に慣れてないのです。

 

あと、「ハイテク機器で勉強している感」によって、本質の勉強の意識から遠ざかっている可能性もあるかもしれませんね。

 

もしかしたら、数年後、生まれたときからタブレットがある世代が小学生からタブレットを使い始めた頃には、タブレットが勉強に最適になっているかもしれません。

 

しかし、高校生までノートと鉛筆でガリガリ勉強してきた我々にとっては、どちらが最適かはわかりません。

 

 

 

少なくとも、タブレット使って板書とってるやつは勉強できないヤツが多いということだけ言っておきます。

日本はもっと、敗北を国民に周知させなければならない

皆さんこんにちは。

 

先日、こんな記事を書きました。

 

https://atsblog.org/japan_problem/

 

この記事からも分かるように、日本は多くの問題を抱えており、経済的にも幸福的にも厳しいのは皆さん、ご存知だと思います。

 

しかし、僕がこう言ったトピックに敏感な方なのか、意外と他の人と話しても、こう言った事を知らなかったり、危機感を感じていない人が多い気がします。

 

先日、金融庁が言及したした年金制度の厳しい状況(年金が崩壊したとは言っていません!)や、経団連トヨタがコメントした終身雇用の厳しい状況を通して、「日本はやばい」と感じてもらえたと思ったのですが、それはやはり一部の大人たちにしか伝わっていなかったように感じます。

 

もしくは、このような現状を知りつつも、なんだかんだGDPは世界第3位でしょ、と、よく見えるところだけに目を向けて、深く考えない人が多い気がします。

 

つまり、現実逃避です。

 

今の日本の街並みの綺麗さや食の質などは過去の遺産である部分が大きいです。そして、これが普通だと思っている日本人がほとんどです。昔の現状を知っている人は、既に亡くなっているか、高齢者です。

 

日本は高度経済成長期をベースと考えた時、完全にアメリカ、中国、一部のヨーロッパ諸国に敗北しているのが現状です。

 

GDPを見れば見栄えが良いかもしれませんが、その裏には多くの問題や、GDPでは測れない部分があるのです。

 

アメリカや中国に、ITなどのテクノロジーで敗北したとよく言われますが、確かにそれもあるかもしれませんが、本質は「日本のあらゆる制度」が原因での敗北です。日本では、みなさんが見えないところで、あらゆるテクノロジーの導入が断念されています。

 

最近では、ハラスメントに対しての当たりが厳しくなったり、多様性を認める風潮は素晴らしい!何でも認めよう、みたいな雰囲気が漂い、長時間労働は悪で、とにかく働く時間を減らそう、の様な社会になりつつあります。

 

良い面が多いのも確かですが、一方で、その風潮に甘えて、ただただダラダラと過ごしている人も出てきているように思えます。

 

正直、よくない風潮です。このままでは、日本はこのままな気がします。

 

 

敗北は敗北です。しかし、敗北したら終わりということではなく、国がある限りは、再戦があります。戦ってどうするんだ、戦う必要があるのか、という声があるかと思いますが、敗北とは、経済的に沈んでいき、過去の経済状況の安定を下回ることを意味します。つまり、敗北とは国が潰れることではなく、国民の生活が苦しくなり、幸福度が下がることを意味します。

 

 

 

 

 

副業の選択肢としてYouTuberが常識となったことを感じた瞬間

みなさんこんにちは。

 

みなさんは、副業していますか?

 

最近、副業が法律的にも認められ、やたらと副業という言葉を聞くようになりました。

 

副業として何を選ぶか?は興味深いですね。

 

さて、最近、「副業なにしようかなぁ〜」と言うと、大学生の子が

 

YouTubeとかブログとかやるんですか??」

 

のような事を言ってくれました。

 

 

おぉ!と思いました。

 

副業に興味がある人ならともかく、そんなに副業に興味がない学生でもYouTubeという単語を出すとは...

 

10年、いや、5年前に副業というワードを出して、ブログはまだしも、YouTubeという言葉を出した人はどれだけいるでしょうか?

 

おそらく、ほとんど0だと思います。

 

その頃のYouTuberは、どちらかと言うと半分バカにされている職業だった様な気がします。

 

それを副業として選ぶと言うのは、なかなか勇気のあるものでした。

 

しかし、今では「副業といえばYouTube」みたいな流れがあるくらいです(言い過ぎかもしれません)。

 

大学生が、副業というワードを聞いてYouTubeと返すのは、なかなか面白いですね。

 

若い人はYouTubeツイッターなどをよくやるので、もしかしたらそこからの情報かもしれません。

 

YouTuberの人が副業についての動画を作れば、そりゃあ副業としてYouTubeを紹介するし、情報発信源であるインターネットに記事を書いているブロガーの人は、ブログを副業としてあげるでしょう。

 

それらを見ると、なんだか稼げる気がしますし、副業といえばYouTube、ブログという印象がついてもおかしくありません。

 

しかし、実は、それら意外にも良い副業はあるんですけどね。笑

 

とにかく、このように今まで斜めから見られていたものが、誰もが選択肢として入れることができる職業となったのは、素晴らしいことです。

 

 

 

そこのおじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんは、孫、子どもがYouTubeをやるといったら、喜びましょう!!

 

世の中のために働くんですよ!!素晴らしい!!

 

 

【気づいてしまった】僕は理系なのかもしれない

みなさんこんにちは。

 

僕は気づいてしまったんです。

 

自分はもしかしたら理系ではないかということに。

 

 

僕は高校2年生から理系クラスに入り、大学は物理工学科、大学院は物理学専攻と機械工学専攻に進学しました。

 

「は?理系じゃん。」

 

と思うかもしれませんが、そういうことではないのです。

 

僕は何となく数学や物理が他の教科よりも少しだけできたので、理系に進みました。なので心の内では、自分としては理学的学問、工学的学問が好きな人間ではなく、日本の教育システムに作られた理系マシーンだと思っていたので、本当の意味での理系ではなく、仮面理系であると信じていました。ただ、将来的に理系がよさそうくらいの安直な考えでした。

 

つまり、理系かどうかは、マインドの問題です。

 

しかし、ある時気づいたのです。大学にこもって勉強しているときに、自分はもしかしたら理系なのではないかと思うくらい、それを楽しんでいることに。

 

例えば、お金の面だけを考えたり、仕事の待遇だけを考えたら、大学教員になりたいとは思わないでしょう。しかし、そんなことは関係なく、将来的にも学問をやり続ける人生も楽しいのではないかと思える自分がいたのです。

 

 

それ以外にも、自分が理系なのでは?と思う節があります。

 

インターネットで理系の特徴を調べると、自分と一致しているところが多いのです。

 

たとえば、有効数字がすごく気になるとか。定量的でない表現は無視するとか。

 

 

 

もしかしたら、僕は理系なのかもしれません。今後も調査していく必要がありそうです。

『不幸せに生きる方法』のまとめと、書いていて思ったこと

 みなさんこんにちは。

 

先日、こんな記事を書きました。

atsblog.org

 

この記事には、タイトル通り『不幸せに生きる』ためにはどのように考え、どのようにすればよいのかが書いてあります。

 

具体的な不幸せな生活を送る方法は、以下のような内容です。

 

  • 人と全く会わない
  • 一日2時間しか寝ない、一日12時間寝る
  • 自分の価値を他人に押し付ける
  • みんながやっているから自分もやる
  • 健康は気にしない
  • 勉強しない
  • ケチになる
  • 他人の都合を優先する
  • 他人と比較する
  • 新しいことはやらない
  • 『やりたいこと』は他人がやっている、うらやましいこと
  • とにかく『認められよう』と努力する
  • 時間のことは意識しない
  • 他人が言っていることは絶対合っている
  • 人生は競争だと考える
  • 人の話を聞かない、信じない

 

これらの内容についても詳しく見たい人は、上のリンクからご覧ください。

 

さて、このような記事を書きながら、「そもそも幸せとはなんだ?」というありがちな疑問を抱いてしまいました。

 

家族を持ち、愛情を感じるのが幸せなのか。好きなことに没頭するのが幸せなのか。お金がたくさんあれば幸せなのか。モテれば幸せなのか。

 

もちろん、人によって違うと思います。

 

 

このように、人はよく「何が幸せなのか?何をもって幸せというのか?自分にとっての幸せは何だろう?」という議論をします。

そして、こう思ったのです。

 

そもそも、『幸せ』という言葉に向かっているだけで、幸せという言葉に意味はないのではないか。

 

と。

 

つまり、幸せであることが正しい状態で、「幸せ」という状態に持っていこうとして、幸せに当てはまるものを探そうとしているのではないだろうかと。

 

しかし、この「幸せな状態」を考えるとき、おそらく多くの人はフワッとした感じでとらえているのではないかと思います。

 

幸せという言葉を調べてみると、Wikipediaではこう書いてあります。

幸福とは、心が満ち足りていること。

 

やはり、フワッとしています。もう少し具体的にするなら、爽快感があるとか、気持ちがいいとかでしょうか。

 

とにかく、幸せという状態自体がただの言葉である。

 

なので、この「自分にとっての幸せは何か?」という議論にそもそも意味はなく、不毛な議論であると。

 

もちろん、そんなの承知であえてこういった議論をするときもあるとは思います。

 

ただ、幸せという言葉に寄せた生き方、行動は本当に自分にとって幸せなのか再帰的…)と思うのです。

 

意味がわからない分になってしまいました。

 

いくらかの研究者と、ごく少ないエンジニアと、いくらかのクリエイターだけの世界はもうすぐ

 

みなさんこんにちは。

 

コンピュータの性能が上がり、人工知能や最適化アルゴリズムによって、単純な作業は機械やコンピュータに置き換わりつつあります。行政もどんどんと機械学習を使って事務作業を減らす動きに出ていますね。

 

この単純労働は仕事としてすべてなくなるという流れは、皆さんもご存知の話だと思います。小学生、中学生でも知っています。

 

そして、最近、本当にフリーランスが増えている気がします。フリーランスでなくても、副業をする人は多くなっているのは確実ですよね(法改正もあったので)。

 

 

 

 

さて、ではこの世の中はどうなっていくのか。

 

まず、研究者は残ります。機械を利用して研究することはあっても、機械が研究することはあり得ません。コンピュータのもとは、0か1の演算(厳密には違いますが)であり、それ以上でもそれ以下でもないことから、研究は行えません。そして、どれだけ新しいものが生み出されようと、研究の対象は無くなりません。

 

 

そして、エンジニアも残ります。ただし、そんなに多くは必要はありません。なぜなら、研究され生み出された新しいもの、新しいサービスを形にするのに、自動化されたツール(将来的にはプログラミングも自動化されるという話もあります)が使えるので、発明品に対する知識は必要ですが人ではそこまでいりません。もちろん、現存する製品を製作、メンテナンスをするのにもおそらく機械が使えるようになるので、そこまで人手がいりません。

 

 

では、それ以外の人間は何をするのか。全員、クリエイターです。

 

クリエイターには、例えばYouTuberのような動画メディアの出演者、そのクリエイター、その他のSNSインフルエンサーイラストレーター、マンガ家、ブロガー、歌手などがあります。ここでいうクリエイターは、アーティストといっても良いかもしれません。

 

副業を始めているひとには、YouTuberやブロガーがおり、信じられないかもしれませんが、会社を辞めてTikTok(動画共有SNSアプリ)やTwitterYouTubeを本業としている人がいます。このようにあらゆる作業が徐々に機械に置き換わると、このようなクリエイターが増えるのは当たり前のことです。なぜ当たり前なのかを、今から説明します。

 

今の人類には、物欲がないのは認めざるを得ません(もちろん、先進国だけかもしれませんが)。とくに生まれたときからモノに囲まれていた若い人たちは物欲が無い人が多いです。つまり、モノは売れない。だから、企業はモノを売るというよりもその製品を使って得られる’’体験’’を売りにしていますAmazonエコーのCMがいい例でしょう。Amazonエコーの機械学習プログラムがすごいというよりは、それによって生活が楽しくなる体験を推しているCMになっています。

 

ということは、モノを売るより体験やサービスを売る方が容易くなってきているのです。もちろん、個人レベルでは、です。Amazonの大きな企業レベルではモノは売れます。

SNSに疎い人はもしかしたら知らないかもしれませんが、小中高生がTwitterで稼ぐ、TikTokで稼ぐのような話はおとぎ話でも怪しい話でもなく、実際にあるのです。しかも、5年以上も前から。そこに、お金に目をくらました大人が参入してきています。

SNSで動画を配信するのも、一つの体験を売っており、彼ら彼女らはクリエイターです。このようにクリエイターが増えるのは当たり前でしょう。

 

 

では、例えば飲食店について考えましょう。料理を作るのは機械でも人間でもよいですが、人間がつくるとしてその人はクリエイターですね。そして、料理を運ぶのは機械でもでき、会計はAmazonGOのように店から出ると勝手に終わっているかもし、電子マネーであらかじめ払っているかもしれないので、人間はいりません。

 

そうなると、飲食店ではなくて家でいいじゃん、UberEatsで料理人の料理を家に運んでもらえばいいじゃん、となるわけです。でも、人は飲食店に行きたがります。つまり、お客さんはその店で食事をするという体験を買っているのですスターバックスがいい例ですね。おそらく、接客サービスが素晴らしい店のみ残ります。というか実際に今でもそうなのではないでしょうか。

よって、料理を運ぶのは機械よりも接客サービスが素晴らしい人間の方が良かったり、料理人を作っている場面を見せながら体験を提供する料理人などは残ったりするのです。もちろん、無駄なところは自動化します。

そうすると、ウェイターは残るではないか、ということになりますが、これはクリエイターです。素晴らしい体験を生み出す、動画クリエイターとなんら変わりません。

要するに、体験を提供するひとはすべてクリエイターで、研究者とエンジニア以外に残っている仕事はクリエイター、アーティストだけということです。現代でクリエイターがクリエイトするのはモノではなく、体験です。

 

 

アプリケーション製作者はエンジニアかクリエイターが微妙で、今ではエンジニアと思われていますが、将来的にはクリエイターに分類される気がします。なぜなら、アプリケーション開発はもっと感覚的にでき、今の動画編集くらいの感じになるような気がするからです。まあしかし、便利なアプリケーションを開発している今はエンジニアでしょうか(体験ではないので)。

 

 

 

今回は、極端に研究者、エンジニア、クリエイターの3パターンに分けました。

 

今ある仕事も大きくいくつかに分けられるとは思いますが、大きく分けても研究者、エンジニア、クリエイター、事務作業員、工場作業員、管理職(公務員も含む)でしょう。このうち、3つになるのです。

 

 

このような世界はもうすぐです。

 

3つのうちどのポジションで生きていくのかを、我々は決めなければなりません。